ダッシュで行くぞ

つれづれ草紙01  仔細是非無


 数学でよく使用されるa′やa"などの右上の記号 ' と " を何と読みますか?

私は中学校のころからダッシュと呼んでいますが,「数学セミナー」というその筋では名が通った雑誌にプライムと読むとの記載があったので直したことがありました. しかし,大学に入ったらほどなくダッシュに戻ってしまいました.大学の先生もダッシュを使っていたからです. 私の恩師はアメリカでPhDを取得し香港で教鞭をとられてから帰国した方でした. よく「君の発音は違う」と直されましたが,ことダッシュをプライムだと修正されたことはありませんでした. この先生は多様性に多く接したこともあり文化的に寛容な方だったのだと思います (香港の学生と比較して日本の学生は勉強しないと嘆いていましたが,それは別の話しです). 私もダッシュの方が語呂がよいので気に行っています. 例えば,a′は「エーダッシュ」と読むと2拍子ですが,「エープライム」だと3拍子です.数式を読むときのスピード感と調子が違います.

 では,英語文化圏ではどのように読まれているのか気になり,今更ながらですが英英辞典で調べました. まず,アメリカ人が好む辞書であるMerriam Webster (1986)では,primeの語釈に数学の用法として微分に使うと記載がありました. 一方,dashに関する記載はLongman Dictionary of the English Language (1985)に,英国では数学記号のprimeと同じという記述がありました. 大辞書Oxford English Dictionary全12巻にはdashの語釈として「A stroke or a line (usually short and straight) make with a pen ....」とあります. 手書きの際に 「 ' 」 をサッと書き付けるのでdashと読むようになったのだと思われます. また,この大辞書ではprimeの語釈に「a'」を「Usually read `a dash'」と説明されれています.

 ネット時代なのでSNSを利用して英国などの様子を調査しました(わざわざロンドンまで行く必要はないのですね!). 英国では日本と状況が似ていて,dashを使うのですが大学ではprimeが優勢なそうです. ただし,Cambridge大学ではdashで通じるとある先生がアップしていました. 邦文のWEBサイトにはダッシュは「死語」であるとも記載されていますが,これへの疑問とその答えが優れた論説と共に「数学セミナー」の2018年8月号に掲載さています. それでも,科学技術研究のメッカがアメリカとなり多くの学者がアメリカのスタイルを取り入れているようです. そういえば,TeXやlaTeXあるいはtroffという数式をきれいに印刷できるコンピュータソフトが1980年前後から広く利用されるようになりましたが, このソフトでは「 a' 」を「a^\prime」や「a opprime」とプログラムして入力します. この影響はかなり強く「やはりプライムなのだな」と同僚と話していました. 私も投稿したSNSのリンクです:
How is a' in mathematics pronounced?
限定的ですが生きた情報がえられると思います.

  英語文化圏では少なくとも,英国,アイルランド,オーストラリアはdashで通じるようです. 非英語圏でも,英国との関係が強かったインドや日本では使用されています. ネットではdashが方言とさせることもありますが,それにしては使用している範囲が広く「その版図に日が沈むことはない」ようです. さらに,「ダッシュを使のは恥ずかしことだ」とも流布されています. しかし,この様な傾向は1990年代ぐらいまでは顕著ではありませんでした. よく目にした反応は「へー,アメリカでは別なんだ」といったものもでした. それでもこんな批評がありました. 「a'をエープライムというのはまだしも, a"をダブルプライムと読むのは,prime(一番)がdouble(2つ)もあるではないか?」 ダッシュが間違いだというより,異国の土地で文化の違いに驚いていたようです. しかし,海外では強く主張されることが多いので,鎬を削るような研究生活を送ると感覚は変わってくるのかもしれません.

  実際の使用頻度がどの程度なのかが気になります.このような場合はやはり統計学ですね. 学術文献が調べられるgoogle schalorで"double dash"と"double prime"を検索してみました.
"double dash" 2,880件 vs. "double prime" 16,700 件
dash派はprime派の約20%です.単純な検索なので正確な数字ではありませんが,劣勢ではありますがdash派も少数では無いようです. なお,私の同僚の話しでは「a" は a second と読むのが正しいそうだ」とのことです.もしこれが本当なら,イケない読み方がかなり広がっていることになります.

  言葉は通じなければ用をなさないので,ダッシュにせよプライムにせよ通じるほうを使うべきなのでしょう. しかし,ダッシュとプライムの用法の違いはもしかすると文化的な攻防のようにも思えす. こうなると,どうも Show your flag!  と叫ばれているようです. そこで英語の学術論文で何度かあえてdashを使いました.しかし,これが原因で査読が通過しないこてはありませんでした. 私の場合は,とりあえずダッシュやdashを使lっても周囲の人には十分通じます. しかし,アメリカの学会で口頭発表する際はさすがにprimeを使いました. 「恥ずかしい」というよりprimeが主流の国でdashと読むのはチョット「無礼」だと思ったからです. プライム派も有力ですが,私のこれまでの文化的な流れはダッシュに属しているようです. 何と言っても,中学で体育の先生がよく「ダッシュで行くぞ」といっていましたからね・・・
  2022.4.7改訂(2016.12.6初稿)  

記号「’」とアクセント

  記号「'」はオランダ語圏ではアクセントとよまれることが多いのです が.その理由を記号の成り立ちをもとに調べノートにまとめてみました.

< 記号 「'」のはじまりと アクセント >


 このノートにも記載しましたが,記号[']の起源をたどるとギリシアにたどり着きます. ここ以前の時代もあるのですが私にはハードルが高い考古学の領域なので, まずはギリシアを起源とした記号「′」の始まりを調査した結果です. ギリシア語では記号「′」は帆船の帆柱や触角を意味するκεραια(ケレイア)のひとつで, ギリシア語の字母を数字として利用する際にも利用されます,例えば,α′は1,β′は2です. また,紀元前にはヒッパルコスが数字を1/60に分割する記号として「'」を使用していた例があるそうです. 例えばγη'λ''は円周率の近似値である3+8/60+30/602を表します(F. Cajori, "A History of Mathematical Notations", Dover 1993). さらに,この記号はアクセントを示すいくつかの記号の一つとしてビザンチン時代である10世紀ごろから使われています. そもそも手書きの時代ですから,「′」を数字に使用しようがアクセント記号として使用しようが区別をしていなかった という前提で考えています. ギリシア語はヨーロッパの古典ですからこの記号「′」はまずはアクセント記号として広がったようです.
 さらに,ギリシャ語のκεραιαが文字の一点一画を意味しますが., この意味と類似した言葉に置き換えられていくつかの地方で使用されています.それらは, 英国のdash(ダッシュ), ドイツのStrich(シュトリッヒ) そしてロシアのштрих (シュトリーフ)です. このあたりは時代によって意味が異なったり詳細な辞典のみの記載であったりしますので要注意です. 例えばdashが一点一画を意味することは大辞書OED(Oxford English Dictionary)には記載がりますが ハンディー辞書には記載されていないことが多いのです.以上は真実というより文献調査による作業仮説の段階でしょうか.
 一方,プライムの起源はどこにあるのでしょうか. Oxford Advanced Leaner's Dictonary電子版のminuteの語釈にある語源によれば, 角度を次々と60分割する際に使用された ラテン語pars minuta prima(第1の小部分)や pars minuta secunda(第2の小部分) すなわち分や秒の呼び方に由来すると考えられます. この角度の分割方法は英国のRoger Bacon(1214-1294)も言及していることが知られていますが, 記号「'」を含む使用例は英国で17世紀に出版されたW. Oughtred(1574-1660)の著書 "Clavis Mathematicae" (Oxford 1667).の21頁にあります, この書物は中世の虎の巻的な書物で角度,127°32' 00'' 09''' 45'''' を十進数から変換する計算法が詳しく記載され, "…eadem est differentia tertii & quarti, quae est primi & secundi." (第三と第四の違い,第一と第二にあるが如し) と記載されています. これらの記載から,「'」,「''」,「'''」,「''''」の17世紀における認識はラテン語で primi, secundi, tertii, quarti であったことが分かります. ヨーロッパの各国もこのラテン語に従ったと考えるのは自然です.
 ここで,こぼれ話です. 記号「'''」はラテン語でteritiですが,この用例はすくなくとも幕末には日本へも伝わっています. 日本初の西洋式数学書として知られる柳川春三の「洋算用法」に角度の表示法として次の記載があります: 「 ' 分(ミュート) '' 秒(セコンド) ''' 微(テルチー)」 . 分や秒は現在でも理系のバイブルである「理科年表」で使われていますが, 「微」は学生時代にある授業で使用例を一度だけ見ただけです. それはさておき,テルチーはラテン語のtertiが起源の読み方だと思われます.

      (2020.5.14改訂/初稿2020.2.22)  
  

記号「’」とアポストロフィー

 これまで、記号「’」をプライムと読む習慣はフランスの影響を受けたアメリカの習慣によると思われること、 および、各国で歴史的な背景からいくつかの読み方があるということを述べてきました. こここでは、やや斜めに構えて 「記号『’』を類似した形を持つ記号であるアポストロフィとみなすことはできなか?」 ということをLOGOSというフフランス語の辞書をもとに考えてみます. It's an apple. において使用される記号「'」です.
 Bordas版のLOGOSでprime(プリム)を調べてると数学の用語としての語釈が3番目に記載されていました:

Affecte d'une apostrophe, dans l'algebre literale, par example a', b'.... [se lisent << a prime , b prime >>].
代数学の文献で省略記号(アポストロフィ)として機能する. 例えば、a′, b′....(「a プリム,bプリム」と読む).
(LOGOS, Bordas (Paris 1978),eの強勢記号は省略)

アポストロフィの語源を研究社の英和辞典で調べるとギリシャ語の「急にそむけた」だそうです. また,Oxford Advanced Learner's Dictionaryではラテン語の起源として‘accent of elision’とあります. さて,LOGOSの上記の説明では一種の省略記号の意味で理解しているようですが、 ダッシュ記号「′」とアポストロフィ記号「’」の形の違いに関する区別は曖昧で, その機能や作用に注目した語釈です. LOGOSは全3巻の大型辞書で参照した書籍の出版年は1978年です. 電子的な写植が始まったころでまだ手書きの感覚が残っていますから、 この時期の人々にとって記号のこまかな形の違いはさして重要ではないようです. ただし、読み方はフランス人でも気になるのでしょう、親切な説明があるのは助かります. 実は、LOGOSよりもっと規模が大きなフランス語辞書があるのですが、ここまで親切ではありませでした.
 記号「’」に似た記号はいくつもあるので、 さまざまなバリエーションがあり混乱しそうですし、 どうでもよいのことと思う人が多いかもしれません. それはそのはずで、手書きでは筆跡の個人差が大きいことから形より文脈が重要です. しかし、電子的に写植する現代では、 印刷業に携わる人でなくともおのずと形状を区別する機会が増えているようです. これを,どう思うかはその立場でことなるとおもいます.
 さて,ここで未来予想です. コンピュータやAI(人工知能)が発達すると、 わざわざキーボードをタイプするより、より自然は手書きに移行しないでしょうか. 親指を巧みに使うスマホの入力はかなり高度な技術ですが、人間の自然な動作ではありません. こう考えると、時代が進むと手書きの プライム、ダッシュ、アクセント、アポストロフィを 文脈を解析してAIが自動で変換するようになりそうです. そして、「人間は些細なことを気にしなくて済む自由を手にする」という 希望に満ちた時代がやって来るのです.
                 (初稿2021.3.21)

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